新規事業がうまくいかないとき、いちばんむずかしいのは「やめる」という判断です。とくに一人社長は、止めてくれる上司も会議もいません。使ったお金や時間が惜しくて、気づけばずるずると続けてしまうことになりがちです。
だからこそ、撤退基準は「経営層を説得するための道具」ではなく、自分が冷静に引くための、自分との約束として作ります。大切なのは、判断が鈍る前、つまり新規事業を始める前に決めておくことです。
この記事では、始める前に決めておきたい三つのライン(期限・上限金額・撤退ライン)の作り方と、撤退を決めたあとにやることを、一人社長の目線で整理します。数字はあなたのビジネスに合わせて決めるものなので、ここでの数値はあくまで考え方の例として読んでください。
- なぜ一人社長は撤退の判断が遅れやすいのか
- 始める前に決めておく三つのライン(期限・上限金額・撤退ライン)の作り方
- 撤退ラインに届かないときの選び方(やめる・縮小・やり方を変える)
- 撤退を決めたあとの赤字の整理と関係先への連絡の進め方
一人社長に撤退基準が必要なのは止める人が自分しかいないから
大きな会社の新規事業なら、上司や経営会議が「そろそろ見直そう」とブレーキをかけてくれます。ところが一人社長は、始めるのも続けるのもやめるのも、すべて自分一人で決めます。止めてくれる人がいないぶん、判断が遅れやすいのです。
遅れる大きな理由は、すでに使ったお金や時間が惜しくなることです。「ここまでやったのだから」という気持ちは自然ですが、これから取り戻せるかどうかとは本来関係がありません。過去に使った分に引きずられて判断が鈍ることは、埋没費用(サンクコスト)にとらわれると呼ばれます。
撤退基準は、この「もったいない」という気持ちに先回りして、冷静なうちに引き際を決めておく仕組みです。経営層を説得するためではなく、未来の自分が迷わないために用意します。
相談者一人だと、やめる判断がなかなかできなくて困っています…。



止める人が自分しかいないからこそ、始める前に引き際を決めておくのが効きます。あとから決めると、もったいない気持ちで判断が鈍りますよ。
撤退基準は始める前の冷静なうちに決めておく
撤退基準は、うまくいかなくなってから考えるものではありません。判断が鈍る前、つまり始める前に決めておくのが基本です。決めておくのは、次の三つのラインです。


| ライン | 決めること | 決め方の軸 |
|---|---|---|
| 期限 | いつまで試すか | 本業や生活への負担から逆算する |
| 上限金額 | いくらまで使うか | 生活防衛資金には手をつけない範囲で |
| 撤退ライン | 最低限どこまで届かせるか | 自分のビジネスの数字で決める |
三つを紙に書き、できれば家族や信頼できる人に共有しておくと、いざというとき「決めたとおりにやる」だけで済みます。ひとつずつ見ていきましょう。



三つも決めるのは大変そうです。



紙一枚で十分です。期限・上限金額・撤退ラインを一行ずつ書くだけ。決めておけば、いざというとき読み返すだけで動けます。
最初に決めるのはいつまで試すかの期限
一つ目のラインは、いつまで試すかという期限です。期限を区切らないと、「もう少しで芽が出るかも」と思っているうちに、時間だけが過ぎていきます。
一人社長が新規事業に使えるのは、本業や生活の合間の時間です。だから期限は、カレンダーの長さだけでなく、自分がどれだけの時間と気力を割けるかから決めます。たとえば「3か月試す」「半年で見直す」のように区切り、その期間が来たら立ち止まって判断する、と先に決めておきます。
ここで挙げた3か月や半年は、あくまで例です。準備に時間がかかる事業なら長めに、すぐ反応が見える事業なら短めにと、自分の事業に合わせて決めてください。
- カレンダーの長さだけでなく、自分が割ける時間と気力から決める
- 期間が来たら立ち止まって判断する、と先に約束しておく
- 準備に時間がかかる事業は長め、反応がすぐ出る事業は短めに
次に決めるのはいくらまで使うかの上限金額
二つ目は、この新規事業に使ってよいお金の上限です。上限を決めずに始めると、うまくいかないときほど「あと少し足せば」と追加で使い、傷が深くなりがちです。
大切なのは、生活防衛資金や本業の運転資金には手をつけないことです。新規事業に回してよいのは、当面使う予定のない余剰資金や、本業の利益の一部までと範囲を区切ります。そして、上限に達したらそれ以上は足さない、と最初に決めておきます。
なお、新規事業で赤字が出ても、それがそのまま全額の損になるとは限りません。税制上はあとから取り戻せる余地があります。この点は撤退後の章でくわしく触れます。



上限金額って、いくらにすればいいんでしょう?



金額の正解はありません。生活費や本業の運転資金には手をつけず、当面使わない余剰の範囲で、と決めるのが基本です。
三つ目は最低限届かなければやめる撤退ライン
三つ目は、期限が来たときに「最低限ここまでは届いていてほしい」という数字です。これが撤退ラインになります。
ここで気をつけたいのは、他人の基準をそのまま借りないことです。ネット上には「顧客獲得コストはいくらまで」「解約率は何パーセント以下」といった数字があふれていますが、業種も規模も違う数字を当てはめても意味がありません。自分のビジネスで「これだけは超えたい」という指標を、一つか二つに絞って決めます。
たとえば、物販なら「ひと月の利益がいくら」、サービスなら「続けてくれるお客さまが何人」、情報発信なら「申し込みが何件」のように、自分が毎月追える数字にします。指標は多すぎると判断がぶれるので、絞るのがコツです。


届かないときはやめる・縮小・やり方を変えるから選ぶ
期限が来て撤退ラインに届かなかったとき、選べる道は「やめる」だけではありません。規模を小さくして続ける「縮小」、売り方や対象を変える「やり方を変える(ピボット)」も、あわせて考えます。
ただし注意があります。「やり方を変えればまだいける」という発想は、延命の口実になりやすいことです。形を変えて続けると決めるなら、そのときに改めて新しい期限・上限金額・撤退ラインを決め直します。これをしないと、ずるずると続ける状態に逆戻りしてしまいます。



やり方を変えれば、まだ続けられそうな気もして…。



その気持ち自体が延命のサインのこともあります。続けるなら、新しい期限と上限金額、撤退ラインを決め直してから進めましょう。
撤退を決めたら赤字の整理と関係先への連絡を進める
撤退を決めたら、後始末を落ち着いて進めます。一人社長がやることは、大きくお金の整理・関係先への連絡・記録を残すことの三つです。
| やること | 内容 |
|---|---|
| お金の整理 | 赤字の税務処理(損益通算・繰越)、未払いや売掛の精算、設備や在庫の処分 |
| 関係先への連絡 | 取引先との契約の解約条件の確認と通知、続けてくれた顧客への案内 |
| 記録を残す | なぜ撤退したか、何が想定と違ったかを書き残して次に活かす |
お金については、撤退に伴う赤字は税制上リカバリーできる余地があります。個人事業の事業所得の赤字は、給与など他の所得と相殺できる場合があり(国税庁No.2250 損益通算)、青色申告なら相殺してもなお残る純損失を翌年以後3年間繰り越せます(国税庁No.2070 青色申告制度)。法人の場合も、青色申告の欠損金を10年間繰り越せます(資本金1億円以下の中小法人なら所得から全額、それ以外は所得の一定割合までが控除の上限です。国税庁No.5762 欠損金の繰越控除)。撤退は「全部が無駄になる」わけではないと知っておくと、冷静に判断できます。
- 取引先は契約の解約条件と通知の時期を先に確認する
- 続けてくれた顧客には、終了時期と今後の案内をていねいに伝える
- 税務の処理は早めに税理士へ相談し、赤字の扱いを確認する
会社と個人のお金の分け方そのものは、別の記事でくわしくまとめています(参考:一人社長の会社のお金の扱い方)。
まとめ
- ✓ 撤退基準は自分との約束:止める人が自分しかいない一人社長が、冷静に引くための仕組み
- ✓ 始める前に決める:判断が鈍る前に、期限・上限金額・撤退ラインの三つを紙に書く
- ✓ 撤退ラインは自分の数字で:他人やネットの基準は借りず、追える指標を一つか二つに絞る
- ✓ 届かないときの選び方:やめる・縮小・やり方を変えるから選ぶ。続けるなら基準を決め直す
- ✓ 撤退は全損ではない:赤字は損益通算や繰越で取り戻す余地がある。前向きな判断と捉える
一人社長の新規事業は、止めてくれる人が自分しかいません。だからこそ、判断が鈍る前に三つのライン(期限・上限金額・撤退ライン)を決めておくことが、損失を抑えるうえでいちばん効きます。撤退は失敗の烙印ではなく、次に資源を回すための前向きな判断です。
(最終更新:2026年6月。引用した税制は2026年6月時点の国税庁タックスアンサーにもとづきます。損益通算や繰越の取り扱いは個別事情で異なり、改正される場合もあるため、最新情報は国税庁の各ページと税理士にご確認ください。)
よくある質問
- 新規事業の撤退基準はいつ決めればよいですか?
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始める前です。うまくいかなくなってからでは、使ったお金や時間が惜しくて判断が鈍ります。冷静なうちに、期限・上限金額・撤退ラインの三つを紙に書いて決めておくと、いざというとき迷わずに動けます。
- 撤退ラインの数字はどう決めればよいですか?
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他人やネットの基準を借りず、自分のビジネスで毎月追える指標を一つか二つに絞って決めます。物販ならひと月の利益、サービスなら継続してくれる顧客数など、自分が確認しやすい数字にすると運用が続きます。
- 撤退とピボット(やり方を変える)は、どちらを選ぶべきですか?
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改善の見込みが具体的にあるなら、縮小やピボットも選択肢です。ただし続けると決めるなら、新しい期限・上限金額・撤退ラインを決め直します。決め直さないと、延命の口実になりやすいからです。
- 新規事業で出た赤字は無駄になりますか?
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全額が無駄になるとは限りません。個人事業の事業所得の赤字は他の所得と損益通算でき、青色申告なら残った純損失を3年間繰り越せます。法人も青色申告の欠損金を一定の範囲で10年間繰り越せます(国税庁No.2250・No.2070・No.5762)。
- 期限は何か月にすればよいですか?
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決まった正解はありません。準備に時間がかかる事業は長め、すぐ反応が見える事業は短めにと、自分が割ける時間と気力から決めます。記事の3か月や半年は、あくまで考え方の例です。
- 撤退を決めたら、まず何をすればよいですか?
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お金の整理(赤字の税務処理・精算・在庫処分)、関係先への連絡(取引先の解約条件の確認・顧客への案内)、記録を残すことの三つを進めます。落ち着いて順に対応すれば、混乱を抑えられます。









